強弱が書かれていない楽譜を、どう演奏するか
公開 2026-08-20
バッハやヘンデルの楽譜を開くと、強弱記号がほとんど書かれていないことに気づきます。ここで「書いていないから一定に弾く」と判断すると、音楽は動かなくなります。当時は書かないのが普通で、決めるのは演奏者の仕事でした。
なぜ書かれていないのか
バロック期の作曲家の多くは、自分で演奏するか、目の前の奏者に口頭で指示できる状況で作品を書いていました。楽譜は音の高さとリズムを伝える最小限の記録であり、演奏の細部まで記す文書ではありませんでした。強弱記号が楽譜に本格的に書き込まれるようになるのは、作曲家と演奏者が分離し、遠く離れた場所で演奏されるようになってからです。つまり記号の不在は情報の欠落ではなく、当時の記譜の前提そのものです。
手がかり1:和声の緊張
最も確実な手がかりは和声です。不協和音が現れて緊張が高まる箇所、属和音が長く引き延ばされる箇所は、自然に音量と密度が増します。逆に主和音へ解決する瞬間は緩みます。掛留音(前の和音の音が残って不協和になり、下行して解決する形)は、掛かった瞬間が最も強く、解決音は必ずそれより弱くなります。この原則ひとつを守るだけで、記号がなくても音楽は呼吸を始めます。
手がかり2:旋律の形
旋律が上行するときは自然に増し、下行するときは減じるのが基本です。跳躍で急に高い音に達したときは、その音が頂点になります。同じ音型が繰り返されるとき(ゼクエンツ)は、繰り返しごとに一段ずつ変化させるのが慣習で、上行するゼクエンツなら強めていき、下行するなら弱めていきます。ただし機械的に処理すると単調になるので、どこを全体の頂点にするかを先に決めてから配分します。
手がかり3:テラス式の強弱
バロックの合奏では、なめらかな増減よりも、段差としての強弱がよく使われます。チェンバロやオルガンは打鍵の強さで音量を変えられないため、鍵盤やストップを切り替えて段を作りました。協奏曲のトゥッティとソロの交替も同じ発想です。書かれた f と p が突然切り替わる形で現れるのはこのためで、クレッシェンドで滑らかにつなぐのは様式に合いません。エコー(同じ楽句を繰り返すときに2回目を弱く)は最も一般的な慣習のひとつです。
手がかり4:舞曲の性格
組曲の各曲には舞曲名が付いています。これは曲名ではなく、拍子・テンポ・重心の位置を含む様式の指定です。サラバンドは3拍子の2拍目に重みがあり、クーラントは流れ、ジーグは跳ねます。強弱を決めるとき、その舞曲がどこに重心を持つかを知っていれば、小節内のどの拍を立てるべきかが自動的に決まります。舞曲名は、書かれていない強弱を補うための最大の情報源です。
決めたら書き込む
重要なのは、演奏者が決める自由があるということは、決めなくていいという意味ではない点です。手がかりから判断した結果は、鉛筆で楽譜に書き込んでおきます。毎回違う解釈で弾くと、身体が覚えず、合奏でも揃いません。書かれていない部分を自分で埋めて一貫させる作業そのものが、この時代の音楽の演奏の中身だと考えてください。