歌い方と声 — ベルカント・コロラトゥーラ・ファルセット
bel canto(美しい歌)は、なめらかなレガートと均一な音色を重んじる歌唱様式で、19世紀前半のイタリア・オペラと結びつけて語られます。coloratura(彩色)は速い音階やトリルなどの華やかな装飾を伴う歌い方、falsetto は地声とは異なる仕組みで出す裏声です。
言葉を使わない歌い方
vocalise は歌詞を用いず母音だけで歌う曲、bocca chiusa(イタリア語)と bouche fermée(フランス語)は口を閉じてハミングで歌う指示です。
tessitura
tessitura は、ある曲や声部で音が最も多く使われている音域を指し、最高音から最低音までの幅とは別の指標です。
美しい歌
「美しい歌」。なめらかなレガートと均一な音色を重んじる、19世紀前半のイタリア・オペラと結びつけて語られる歌唱様式。
Bel canto はイタリア語で「美しい歌」を意味し、無理のない発声と滑らかなレガート、音域を通じた音色の均一さを重視する、19世紀イタリア・オペラの歌唱伝統を指す。
滑らかさと均一さを重視する発声
ベルカントの理想は、力任せに声を張り上げることではなく、息の流れを絶やさず、低音から高音まで音色の質感を変えずに歌うことにある。装飾的なパッセージも、力ではなく息のコントロールで軽やかにこなすことが求められる。
ベッリーニ、ドニゼッティ、初期ロッシーニ
ベルカントという様式名は、ヴィンチェンツォ・ベッリーニやガエターノ・ドニゼッティ、初期のジョアキーノ・ロッシーニのオペラに代表される、旋律の美しさと歌唱技巧を前面に出した作風と結び付けて語られることが多い。
華麗な装飾を伴う歌唱
「彩色」。速い音階やトリルなどの華やかな装飾を伴う歌い方。
Coloratura(コロラトゥーラ)はイタリア語で「彩色、色付け」を意味する語。急速な音階やトリル、跳躍を多用した、技巧的で華麗な装飾を伴う歌唱様式を指す。
「色を付ける」という語の芯
動詞 colorare(色を付ける)の名詞形で、単純な旋律線に速いパッセージや装飾音を加え、聴覚的な「彩り」を添える発想がそのまま語になっている。ソプラノの高音域で歌われることが多いが、本来は声域を指す語ではなく、装飾的な歌い回しそのものを指す語である。
オペラでの役割
感情が高揚し、言葉だけでは表現しきれない場面で、装飾的な旋律が代わりに心情の激しさや華やかさを表す。狂乱の場面や祝祭的な場面など、劇的な頂点でコロラトゥーラの技巧が求められることが多い。
裏声(仮声)
裏声。地声とは異なる発声の仕組みで出す高い声。
Falsetto(ファルセット)はイタリア語で falso(偽りの)の縮小形で、「小さな偽りの声」の意。声帯全体ではなく縁の部分だけを振動させて出す、地声(モーダルボイス)とは発声機構の異なる高い声域を指す。
声帯の使い方が地声と異なる
通常の地声(モーダルボイス)では声帯全体が厚みを保ったまま振動するのに対し、ファルセットでは声帯の縁だけが薄く振動し、声帯全体はしっかり閉じきらない。このため地声より息が多く混じり、細く軽い音色になる。「偽り」という呼び名は、地声と異なる発声機構で出るこの声を、本来の声ではないと捉えた歴史的な見方に由来する。
男声で特に意識される切り替え
地声とファルセットの境目(passaggio と呼ばれる移行域)をどう滑らかに越えるかは、男声にとって重要な技術的課題になる。ポップスやカウンターテナーの歌唱では、この切り替えを目立たせず地声のように扱う技術(ヘッドボイスとの融合)が磨かれてきた。
演奏のヒント
声楽(男声)
曲全体をファルセットで歌う場合、声帯の縁だけで振動を保ち続けるため息の量が地声より多く必要になります。フレーズの長さに応じて息継ぎの位置を通常より細かく設計しておくことが安定した音色を保つ鍵です。
この指示が使われる曲
ビー・ジーズ「ステイン・アライヴ」(1977年)
バリー・ギブのファルセットによる歌唱で知られる曲です。
地声と裏声を交互に出す歌唱
地声と裏声を素早く切り替えながら歌う、アルプス地方の歌唱法。
Yodel(ヨーデル)はドイツ語 jodeln に由来する語で、地声(モーダルボイス)とファルセットを急速に切り替えながら歌う、アルプス地方の民俗的な歌唱技法。
声区の切れ目をあえて聞かせる
通常の歌唱では地声とファルセットの切り替え(パッサッジョ)をなめらかに隠すことが目指されるのに対し、ヨーデルはその切り替えをあえて速く、はっきりと繰り返すことで、独特の弾むような音色の変化を作り出す。大きな音程の跳躍を伴うことが多い。
スイス・オーストリア・バイエルンの民俗音楽
スイスやオーストリア、南部ドイツ(バイエルン)のアルプス地方の民俗音楽に伝わる歌唱様式で、山あいでの合図や呼びかけに由来する発声と結び付けて語られることが多い。
母音だけで歌う歌
歌詞を用いず母音だけで歌う曲。ラフマニノフの作品が知られる。
Vocalise(ヴォカリーズ)はフランス語で、歌詞を用いず母音だけで歌う練習曲、または演奏会用の楽曲を指す。
言葉を持たない歌
歌詞がないため、言葉の意味に頼らず、声そのものの音色や息の流れ、フレーズの作り方に集中して聴くことになる。声を楽器のように扱う発想から生まれた形式で、発声練習として作られたものから、演奏会用の独立した作品として書かれたものまで幅がある。
ラフマニノフの「ヴォカリーズ」
ラフマニノフの歌曲集 作品34は1912年に13曲が作られ、3年後の1915年にもう1曲「ヴォカリーズ」(作品34の14)が加えられて全14曲となった。歌詞を持たない演奏会用作品として特に有名で、ソプラノ歌手アントニーナ・ネジダーノヴァに献呈された。器楽版に編曲されて演奏される機会も多い。
母音の選択は歌い手にゆだねられる
ヴォカリーズの楽譜には、どの母音で歌うかが指定されていないことが多い。歌い手や場面によって a・e・i・o・u のいずれかが選ばれ、選んだ母音によって声の響き方や曲全体の印象が変わる。この自由度も、歌詞を持たないこのジャンルの特徴の一つである。
演奏のヒント
声楽
言葉というよりどころが無いため、フレーズの終わりをどこに置くか、どこで息を継ぐかを、器楽のフレージングのように自分で設計する必要があります。
この指示が使われる曲
ラフマニノフ「ヴォカリーズ」作品34の14
歌詞を持たない演奏会用ヴォカリーズの代表作。
口を閉じて、ハミングで
「口を閉じて」。合唱でハミングで歌うことを示す。
Bocca chiusa は「口を閉じて」。合唱で口を閉じたまま歌う、いわゆるハミングの指示です。
響きの性質
口を閉じているため音は鼻腔から抜け、口を開けた発声より柔らかく、輪郭のぼやけた響きになります。母音の色がなくなるため、言葉としての情報が消え、純粋な音の層として機能します。他の声部の歌う旋律の背景を作る目的で使われることが多くあります。
歌う上での要点
口を閉じると音量が出にくくなりますが、息の支えを緩めると音程が下がり、響きも失われます。口の中の空間を広く保ったまま唇だけを閉じることで、鼻腔へ抜ける響きが確保できます。音程は開けた発声より取りにくくなるため、正確さの確認が必要です。
記譜
楽譜には歌詞の代わりにこの指示が書かれ、母音は示されません。音符だけが並ぶ箇所にこの語があれば、ハミングで歌う区間です。フランス語では bouche fermée が同じ意味で使われます。
この指示が使われる曲
プッチーニ「蝶々夫人」第2幕
「ハミング・コーラス」の名で知られる合唱(Coro a bocca chiusa)が、口を閉じたまま歌われます。
♪Bouche ferméeブーシュ・フェルメ
フランス語
口を閉じて、ハミング
フランス語で「閉じた口」。イタリア語の bocca chiusa と同じく、口を閉じてハミングで歌う指示。
Bouche fermée はフランス語で「閉じた口」。イタリア語の bocca chiusa と同じく、口を閉じたまま歌うハミングの指示です。
フランス語圏の楽譜で
フランス語で書かれた声楽曲・合唱曲の楽譜に現れます。指示の内容は bocca chiusa と同じで、口を閉じて鼻腔へ響かせる発声を求めます。母音の色がなくなり、言葉としての情報を持たない柔らかな音の層になります。
その曲で最も使われる音域
ある曲や声部で、音が最も多く使われている音域。
Tessitura(テッシトゥーラ)はイタリア語で「織物、質感」を意味する tessere(織る)に由来する語で、ある声部や楽曲の中で、音がもっとも多く使われている音域を指す。
最高音・最低音とは別の指標
楽曲や声部が実際に到達する最高音と最低音の幅は ambitus(音域)と呼ばれるのに対し、tessitura はその中でどのあたりの高さに音が「織り込まれ」て集中しているかを指す。まれに高音や低音へ跳躍しても、大半の音がその声にとって歌いやすい範囲にあれば、その部分がテッシトゥーラとなる。
声のタイプを選ぶ基準
同じ最高音まで届く歌手同士でも、日常的に楽に響かせられる音域(テッシトゥーラ)は人によって異なる。オペラの配役では、最高音に到達できるかどうかだけでなく、その役の音がどの高さに集中しているかが、声のタイプに合っているかを判断する重要な基準になる。